
|
INDEX
|
演奏会で成功し、幸せな新婚生活を送っていたドヴォルザークに訪れたもう一つの朗報は、プラハの由緒ある聖ヴォイチェフ教会から 届いた、オルガン奏者としての就任要請でした。時を同じくしたある日のこと、親友ベンドルが彼のところへウィーン文化教育省の国家奨学生制度の話を持ってきます。この制度は若くて才能のある芸術家(音楽に限らず)を援助して、年に400グルデンの奨学金を支給するというものでした。当時のドヴォルザークの年収は、教会の給料と個人レッスンを合わせても約180グルデンでしたから、比較するまでもありません。審査員は、ウィーン宮廷歌劇場の総監督ヨハン・ヘルベック、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリット、大作曲家ヨハネス・ブラームスなどそうそうたるメンバーが名前を連ねていました。ドヴォルザークは意欲に燃えて作品を書き上げ、ウィーン文化教育省に提出します。しかし合否の決定はすぐ には出されず、数ヵ月後の1875年2月、本人もほとんど忘れかけていた頃になって、ようやく授与の通知が届きました。長い間地道にこつこつと作曲を続けて来たドヴォルザークにやっと才能と将来性が認められ、特にブラームスにはその非凡な才能を高く評価されたのでした。奨学金は5年連続で受け取ることができ、この間の主な作品としては、「弦楽五重奏曲第二番」「ピアノ三重奏曲第一番」「ピアノ四重奏曲第一番」(1875)などの室内楽、「弦楽セレナード」や「交響曲第五番」(1875)といったオーケストラ曲が揚げられます。これらの作品を仕上げた後、ドヴォルザークは改めてオペラに取り組み、1876年に悲劇「バンダ」を完成初演するのですが、これは彼の情熱とはうらはらに失敗に終わってしまいました。また同年「モラビア二重唱曲集」を作曲し、彼の友人のネフ夫妻の助けを借りて自費出版もしています。世間に広く知れ渡ることになったこの曲は、ブラームスの目に触れたのがきっかけで、ベルリンの楽譜出版業者フリッツ・ジムロックヘの紹介の橋渡し役をつとめることになりました。ジムロックはドイツだけでなく、ヨーロッパ全域で出版業務を手がける大会社の社長です。こうして「モラビア二重唱曲集」はチェコからヨーロッパ全域に認知され、その好評からドヴォルザークは名実ともに国際的作曲家としての道を歩むことになったのでした。
〜続く〜 |
|
「奏法の 完璧さを望むのであれば、巨匠たちの作品により多くの時間をかけねばなりません。彼等の個性的なスタイルにすっかり習熟し、彼等の作品をメカニックな面で練習する段階になっても、それが心に残っているようになるまで練習し続けることが肝要です。そうなれば、例えばドゥシェクの作品を弾くための、静かで、柔らかで、優雅な弾き方では、ベートーヴェンや現代の華麗な作品を演奏できないことがわかるでしょう。それはちょうど、絵画に細密画・クレヨン画・フレスコ画・油絵などがあるのと同じで、それぞれの間に違いがあるのと同じことなのです。」これは1830年に刊行されたチェルニーの『完全なる理論的実践的ピアノ教本』第三部の一文です。学習者にとっても指導者にとっても、チェルニーは「エチュードの大家」という人物像で受けとめられることが圧倒的に多いと思われますが、そもそも人間の手は人によって大きさも違えば、構造も違うため、誰にでも合う万能薬のようなエチュードは存在しない、というのが彼の持論でした。言われてみれば当たり前のことですが、なかなかに明快で、チェルニーの音楽家としての見識はかなり高かったと思わせられます。曲の中の難しい部分、うまく弾けない部分はどうしても「ミスをしない」ことにばかり意識がいってしまいますが、そのような箇所を練習する時でも、決してエチュードみたいになってはいけない。メカニックな練習であっても、その曲を音楽的に弾くことこそ肝心、ということを彼は言いたかったのではないでしょうか。エチュードは単に指がよく動くようになるための練習ではなく、あくまでも全てを音楽的に表現するための一つの手段であり、それが理解されないならば、費やされた貴重な時間は意味をなさない、とも言っています。また音楽史の流れに従い、それぞれの時代の演奏様式を熟知しなければならないことは当然とした上で、ショパンやリスト等新しい時代の作曲家が新しいパッセージを書き、奏法的にも難しい曲を書くようになったのは、ピアノの楽器としての機能が開発されたことによるものであることをきちんと踏まえて提言しています。折しもエラールによってダブルエスケープメントアクションが発明され、急速な連打やトリルが可能になり、これまでになかったような表現や効果をねらった作品が次々に生まれることになっていきます。そのような作品においても十分に演奏し得るよう、奏法もそれに対応した勉強をすべきだとの意見はまったくもってその通り、議論の余地はありません。現在活躍中のピアニストでも、チェルニーを大事に位置付けている一人、テレサ・カレーニョは「本番中のケアレスミスを避けるにはバッハとチェルニーを徹底してさらうと良い」と言っていますし、かのストラヴィンスキーは本番前はプログラムの曲でなしに、もっぱらチェルニーを弾いていたといわれます。エチュードの何たるか、その本質を知って千曲を超える作品を残し、同時に優れた演奏者でもあった、彼ならではのエピソードだと思います。 最後に余談を一つ。チェルニーの先生だったベートーヴェンは、厳格で結構生徒に意地悪もしたようですが(例えば幼稚園児に朝の6時からレッスンをするとか)、当のチェルニーは例外的に好意的に教えてもらえた数少ない生徒の一人だったようです。それゆえかどうかは分かりませんが、チェルニー自身は誰に対しても、とても親切な先生だったそうです。(了) |